といっても生まれて直ぐ愛知県豊田市に引っ越してきたので、青森県の記憶と言えば家族旅行を兼ねた幼少期のお盆のお墓参りといった具合です。
親父は、祖父から引き継いだ理髪店を経営していましたが、元々後継ぎという敷かれたレールを歩く生き方が嫌だったようで青森県から遠く離れた、愛知県に単身で大手自動車メーカーの期間工として働くようになりました。そして、正社員に採用されたことをキッカケに、私達家族が愛知県に呼ばれました。
親父は、自分の生き方を自分で決めたのだと思うし子供の頃から親父にはいつも嘘はダメだ!正直で自由に生きろ!そしてその生き方に責任を持てと言われていました。
私は、子供の頃から背が高く、運動神経にも恵まれていたので、将来は、プロ野球選手になろうと、野球に打ち込んでいました。当時の作文を見ても、「将来の夢」は、プロ野球選手になることと、何度も書いていました。
親父は仕事帰りにいつもキャッチボールをしてくれました。私は毎日親父の帰りが楽しみだったし、親父もその時間を愛知県に来て叶えたのだと今、私も親となりその気持ちが分かります。
小学生になると、地元の少年野球チームに入団しました。チームのキャプテとなりピッチャーで、4番打者。中学も当然野球部に入り、朝から晩まで、練習漬けの毎日でした。
「将来プロ野球の選手になる」勉強より野球のことしか考えていませんでした。
その甲斐もあって、中学3年生の時には、東海地区、関西地区の複数の強豪校からお誘いを受けました。当時の中学3年生は夏の大会が終わると内定先高校の練習に参加するのが普通でした。
負けん気だけ強い私は甲子園常連校の3年生の先輩の練習を見ても中学3年生でも負ける気がしなかった。それは少年野球時代からともにレギュラーで戦った先輩達が1年からレギュラーで甲子園を沸かせていたのも後押しとなり「入学したら絶対に1年からレギュラーになって、夏の甲子園に行く」と決めました。そして、絶対にプロ野球選手になると決めていたのです。
それは、野球が好きだということもありましたが、沢山お金を稼いで、苦労続きの母親を楽にしたい、の一心でした。そして、野球で地元強豪校への内定を早々にいただきました。
ところが、高校入学目前の中学3年の冬に靭帯断裂という大きな怪我をしてしまいました。野球に限らずスポーツ選手にとっては、致命的な怪我。たとえ怪我が治っても今まで通りの動きができるのか?歩けるようになっても、とても、プロ野球の選手としては活躍できません。
そんな不安は的中し、私の入院生活は夏迄続いてしまったのです。高校入学時期も逃し私は高校進学さえ諦め野球を断念しました。
「あの怪我さえ無かったら・・・」
あれも私に必要な試練だったのでしょう。
私が病院を退院した時、テレビでは、甲子園大会が始まっていました。愛知代表校は内定をいただいていたあの強豪校でした。そして少年野球時代からの先輩は勿論、1年生同級生もレギュラー選手として出場していました。私は、悔しい気持ちと現実を受け止める事ができませんでした。
甲子園のテレビ中継や新聞など高校野球の情報は一切入れなかったです。それは同級生が卒業する迄一度も野球を観る事はありませんでした。
子供だったんですよね。
明確な目的意識も持てず、地元の小さな町工場で、油まみれになって働いていました。当時は、浜田省吾のMONEYのテープを擦り切れるほど聴いていましたね。
それは、自分との葛藤もありました。でも絶対諦めない!幼少期の頃、親父がキャッチボールの時に言っていた言葉「嘘はダメだ!正直で自由に生きろ!そしてその生き方に責任を持て」が、いつも自分の心の躍動源となりました。しかし、若さゆえその躍動源が周囲の大人達への反発にもなり、どんな仕事についても、直ぐ辞めてしまう。当然家族には、本当に心配をかけてしまいました。
18歳となり車の免許を取得しました。その頃、そんな私に「中古車販売の営業の仕事」を紹介して下さった方がいました。
油にまみれた工場の仕事と浜田省吾のMONEYを毎日聴いていた私には、思いがけないチャンスでした。中卒の私にとっては、「スーツとネクタイそして革靴」の仕事に就けるとは、思ってもいませんでしたから。
そして、3度の飯よりも、とにかく服が大好きな私は、最初「格好」で、この「営業職」を選びました。
しかし、中古車販売会社に入社してみると、厳しい現実が私を待っていました。
毎週月曜の朝礼では、30人ほどいる営業マンに対して上司からの激しいゲキに、悔し涙を流し泣きだす先輩営業マンもいたほどです。
「俺は、甲子園出場とプロ野球選手になるという夢は、怪我で断念した。けど、この営業の世界では、絶対に負けない。営業のエースでそして4番打者になってやる」と決意したのです。
そして入社3カ月目から、会社を辞めるまでの5年間、30人いた営業マンの中で、常に、3位以内の成績を確保することが出来たのです。これは、野球を断念せざるを得なかった悔しさがバネとなり今も尊敬している店長のご指導のお陰です。
入社当時はバブル絶頂の頃、新車よりも高く売れる高級外車の「新古車」が、バンバン売れました。しかし、バブル景気の終わりと共に、営業マンも減りそして最後は、社長と店長と私の3人だけになってしまいました。
しかも、残念なのは、あろうことか社長が蒸発してしまい店長と私だけが、その会社に残されることになりました。
倒産寸前という状況を私は知らされていませんでした。ちょっと経営がしんどいのかな?といった感覚だったのを覚えています。当時会社の方針でお金だけ預かって納車していない私担当のお客様が6名いたので、無責任な行動をとれなかったのです。だから、店長と私の2人だけになっても、私を信じてくれたお客様を無視して、逃げ出せなかったのです。
母親の知人の紹介で弁護士に辿り着きました。そして弁護士さんに相談しました。しかし弁護士の先生からは、役員でもない君がそこまでする必要はない。と言われました。
しかし、ずっと生まれ育った地元です。子供の頃言われ続けた、親父の言葉「嘘はダメだ!正直で自由に生きろ!そしてその生き方に責任を持て」がいつも私の脳裏に焼き付くのです。私が選んだのは、お客様に会社が迷惑を掛けた1000万円強の金額を個人として、私が支払いました。私にとってとても大金だったので、転職した後も毎日の新聞配達と週末のアルバイトをして34才までかかって完済できました。
私が最後まで、会社に残ったのは、中学しか出ていない私に営業を教えてくれた店長に御恩返ししたかったという気持ちもありました。
「斎藤、お前早く仕事を見つけろよ。お前が新しい職に就くまでは、俺も次の仕事を探せないじゃないか」。
私は、店長と一緒に働きたいといった甘えがありました。そこで店長は私の性格を把握して、あえて続けてこう話しました。
「斎藤、お前、大工にならないか? 職人は良いぞ! 手に職をつければ、どこでも食っていける。学歴も関係ない。その腕で、食っていけるぞ」。
店長のあの言葉がなければ今の私はありません。あの時、私を突き放してくれた店長のお陰です。
そして、店長の幼馴染でご家族で大工さんをしている方を紹介してくれたのです。
私は、店長の助言通り直ぐに、大工見習いとして修行を始めることにしました。23才の時です。
大工見習のスタートには、大分、遅すぎるスタートです。しかし、信頼していた社長が蒸発して居なくなり心が病んでいた私にとって、大工という畑違いの仕事は、むしろ都合が良かったのです。
大好きだった中古車販売会社が倒産し、私は大工に転職したばかり。
奥さんのご両親は心配したに違いないでしょう。しかし、私は結婚式を延長する選択肢はありませんでした。あえて、延期しないことで、自分にプレッシャーをかけたのです。それに、職人仕事の経験は、15才から経験があります。
それも、大きな自信でした。
「油のにおい」から「木のにおい」に変わっただけだと、私は自分に何度も言い聞かせて、とにかく大工仕事を覚えることに全集中。
大工道具の名前から、建築用語、木の種類等々、新しい発見の毎日で、現場で仕事を覚えることが楽しくて仕方ありませんでした。
現場で会う初対面の職人さん、材木屋さんへ自己紹介の度、毎回「斎藤君は何故、大学出てから大工になろうと思ったの?」と聞かれました。
23歳から大工と聞くと一応に皆さん大卒と思われるのです。
「自分の信条」だと、この頃感じるようになりました。 でも会う方すべてが、応援の言葉を言ってくれる訳ではありません。
中卒と聞くと「その歳まで働いてなかったのか?」「ボンボン息子かい?」など心無い言葉もありました。
でも私はこう心の中で呟くのです。
今も昔も前向きさは変わりませんね。
そして、感謝しているのは、私を指導してくれた大工の親方は、無垢の木を手刻みする本格的な仕事を得意とする大工さんだったことです。
「斎藤君、この木の匂いはどうだい?」
「これは、地元の地松だよ、松は、この匂いだよ」
と、親方は、木の香りや、名前、特徴までも詳しく私に教えてくれたのです。
そして、今では珍しくなった木材への墨付けや刻みといった手作業を全部教えてくれました。それは、今も私の財産になっています。
内装材では、無垢フローリングを自分で作るなど、また塗り壁といった自然素材を多用する本物の家づくりでした。私は、そんな親方のもとで、大工修行が出来たことを、今も感謝しています。
そして、もう1つ学んだことがあります。それは、道具は職人の命であり、「道具を粗末にする奴と、作業場や現場を綺麗に掃除できない奴は、ろくな職人にならん」という教えです。
この教えは今も多くの仲間と共有し私の現場で徹底されています。
大工修行時代の家づくりは、床や天井は、無垢材、壁も無垢材か漆喰でした。私が学んだ家づくりは、自然素材の家づくりだったのです。
私は、親方のような大工になるつもりでした。しかし、2階の梁の上で転倒し、古傷の靭帯を再び痛めてしまいました。しゃがむ作業ができなくなり「現場仕事を諦めて違う仕事を選んでは?」と、お医者さんから勧められました。家族の為にも大工の道を諦めざるを得なくなりました。
私は、大工修行時代に培った知識を生かすぞ!その決意で建築会社の現場監督に転職をしました。
大工として職人になる道を諦めたのだから、家づくりの全工程の段取りから知識を身に付けられる仕事がしたいと思ったのです。
しかし、私のその選択肢は間違っていました。
現場監督として就職したその建築会社は、不動産と住宅をセットで販売する、いわゆる建売屋さんでした。私が大工修行時代に学んだ本物の家づくりとは、まったく違う家づくりでした。
今もよく覚えています。
完成間近の新築現場に内装工事の点検に行くと、目がチカチカして、鼻がツーンとしたのです。目が充血するほどで鼻炎の私にはとても辛く。
お客さんがこの様な現象を感じたら大変と思い社長へ直ぐ電話報告をしましたが。
しかし当時の社長の反応は・・・
「3カ月もしたら、消えてくし、馴染んで行く。お客さんに聞かれたら、そう答えなさい」と言われました。
これは、明らかに問題のあるシックハウスです。
私は、こういった建物と関わるために大工修行をした訳ではないし、建築の世界に入った訳でもありません。悶々とする日が続いたある日、転職を決意しました。
そして、リフォーム会社への転職を決意しました。
私は大工の修行をし、現場監督も経験しましたから、大規模なリフォームの仕事も学びたいと思ったのです。大規模なリフォームにおいては、新築の知識が必要です。
昨今、内装業者や塗装業者が、こぞってリフォーム工事をしています。しかし、リフォームは新築と違い1から10といった具合にはいきません。
完成している建物の一部を解体して更に機能性を上げていくといった仕事内容になります。リフォームこそ新築経験がないと難しい仕事なのです。だから、私はリフォームを軽視する仕事ができないのです。
そして、私が大工修行時代に建てていた本物の家づくりがしたかったのです。
リフォーム会社の修行では、思わぬ副産物もありました。それは、ビルやマンションの大規模工事の経験を積むことが出来た事と店舗や非住宅といった施設の仕事に関われたことです。
今では、弊社の代名詞といっても過言ではない木造非住宅の新築やビルや、施設の大規模改修工事を得意とした工務店でありながらも、昔ながらの丁寧な家づくりができる工務店とした立ち位置で、元請会社として工事に拘りを持っています。
バルボア工務店は東京・名古屋を拠点としています。
私を始めとした、弊社のスタッフも皆、職人経験があり現場仕事を熟知しております。
多数の店舗施工の経験を基盤とし、遊び心のある居心地の良い空間をご提案します。
そしてビル・ホテル・工場・施設等の新築工事全般、大規模改修工事を一貫し、サポートするモノづくり現場集団です。
バルボア工務店ではビル・ホテル・工場・施設等の新築工事全般、大規模改修工事を主軸に請け負っております。
会社は小さいですが、30年の経験と豊富な知識を活かし、大手ゼネコン様ができないフットワークの軽さが強みです。
大規模な工事は建築の基本がなければ出来ない難しい仕事です。バルボア工務店では、長年の家づくりや店舗施工の経験を活かしお客様と信頼を深め、堅実で丁寧な仕事をする事が重要と考えています。
バルボア工務店株式会社
代表取締役 斎藤 浩司